過失
ここでは、過失について扱います。
過失犯処罰
編集犯罪の成立を肯定するためには、故意の存在が必要であるというのが原則であり、これを故意犯処罰の原則といいます(38条1項本文)。しかし、特別の規定が定められている場合には過失で足り、過失犯も処罰されることとなります(38条1項但書)。また、判例においては、過失による場合も処罰しなければ取り締りの目的を達成することができない場合には当然過失犯も処罰する趣旨のものであると解して、過失を処罰する明文の規定が存在しない場合において過失犯の処罰が肯定されています(最決昭和28年3月5日刑集7巻3号506頁、最判昭和37年5月4日刑集16巻5号510頁)。
過失の意義
編集旧過失論
編集旧過失論(伝統的過失論)は過失を、故意犯における構成要件該当事実の認識・予見に対応した、構成要件該当事実の認識・予見可能性であり、結果の予見可能性があったにもかかわらず予見しなかったこと、すなわち予見義務違反であると捉える見解です。過失は、その具体的な結果が予見可能であったのに精神を緊張させず、予見しなかったことで行為者に対する責任非難を基礎付けるものであり、故意犯と過失犯との間には構成要件該当性及び違法性の段階においては本質的な相違はないものと解されます。
結果無価値の考え方からは、故意・過失は客観的な違法要素とは区別される、主観的な責任要素であると捉えるのであり、またこのような過失の捉え方は結果の惹起を責任非難の基礎とするものであって、結果無価値の立場に立つ場合、過失についてはこの旧過失論の見解に立つこととなります。
新過失論
編集新過失論とは過失を、結果を回避するべきであるのに回避しなかったこと、すなわち結果回避義務違反と捉える見解です。これは行為者に予見可能性があることを前提としており、その上で結果の回避をすべきであるのに回避しなかったことが過失であると捉えるものです。そこで、ただ主観的に予見可能かどうかということに加えて、客観的にもそれを予見し回避する義務(客観的注意義務)があったと認められるかということが過失の有無の判断において問題となります。この見解は、自動車交通の発達などを受けて、予見可能性は広く捉えられ得るものであって、予見可能性があるからといって直ちに過失を認めるべきではないとして主張されるようになった見解であり、過失は、責任非難を基礎付けるだけでなく、社会生活上一般に要求される結果回避行為を行わなかった(基準行為からの逸脱)という行為の違法性をも基礎付けるものと解されます。
これは、過失の判断において行為無価値の考え方を入れるものであり、行為無価値の立場に立つ場合、基本的にこの新過失論の見解に立つこととなります。
危惧感説
編集危惧感説(新・新過失論)は、結果の具体的な予見可能性を不要とし、過失を、漠然とした危惧感(抽象的予見可能性)があればそれを解消する措置をとらなければならないのに、そのような措置をとらなかったということであると捉える見解であり、公害問題の深刻化などを受けて主張された見解ですが、過失の成立範囲を余りにも拡大しすぎ、責任主義に反するものとして、判例・学説上支持されているものではありません。
過失の有無
編集基本的判断方法
編集過失の有無の判断において、まずその予見可能性については、当該行為者の能力を基準として判断がなされることとなります。その行為者に予見可能であったにもかかわらず予見しなかったという予見義務違反が過失の成立には必要となります。旧過失論の見解に立てば、これが認められれば過失が認められることとなります。
また、新過失論の見解に立つ場合には、過失が認められるためには結果回避義務違反が認められる必要があり、そのため、当該行為者の予見可能性が認められた上で、問題となっている行為に関して、結果を予見し回避するという客観的注意義務の違反が認められるかどうかが判断されることとなります。そして客観的注意義務違反は、基本的には、一般人を基準として結果予見可能性があったかどうかにより判断がされることとなります。すなわち、一般人を基準として結果予見可能性があったのであれば、基本的には回避可能性・回避義務があるものと考えられ、そのような予見をして結果の発生を回避するべきであったといえることとなります。
信頼の原則
編集過失の有無を判断する際、信頼の原則を用いることが判例・学説上一般に認められています。信頼の原則とは、他の者が不適切な行動に出ないことを信頼することができる事情があるとき、他の者は適切な行動をすることを前提として行為すれば足り、その信頼が裏切られたため結果が発生したとしても過失責任を問われることはないという原則です。これは、自動車の運転者の注意義務を認定する際に、注意義務の限定原理として用いられ始めたものであり、自動車の走行のようなもともと一定の危険を有する行為をする場合に、第三者が無謀な行動にでることまで考慮しなければならないというのでは、自動車の交通機関としての機能が失われてしまうことにもなりかねないため、他者が適切な行為に出ることを信頼してよいと考えられました。この原則は、現在では自動車交通の場合以外でも用いられています。
この信頼の原則の性質については見解が分かれています。新過失論の立場からは、これは客観的注意義務を認定する際の基準となるものと考えられます。一方旧過失論の立場に立つ場合、これは行為者に具体的予見可能性があったかどうかを判断する際の基準の一つとなるものと考えられます。
- 最判昭和42年10月13日刑集21巻8号1097頁
- 本件は、被告人が原動機付自転車を運転して、見通しのよい幅員約10mの道路から右側の小道に入るため右折を始めた際、後方を十分に確認していなかったため、後方からこれを時速60kmないし70kmで追い越そうとしていた被害者の原動機付自転車を発見せず、これと接触して被害者を転倒させ、死亡させたとして、業務上過失致死罪に問われた事案です。
- 原審は業務上過失致死罪の成立を認めましたが、最高裁は、「車両の運転者は、互に他の運転者が交通法規に従って適切な行動に出るであろうことを信頼して運転すべきものであり、そのような信頼がなければ、一時といえども安心して運転をすることはできないものである。そして、すべての運転者が、交通法規に従って適切な行動に出るとともに、そのことを互に信頼し合って運転することになれば、事故の発生が未然に防止され、車両等の高速度交通機関の効用が十分に発揮されるに至るものと考えられる。従って、車両の運転者の注意義務を考えるに当っては、この点を十分配慮しなければならない……略……後方から来る他の車両の運転者が、交通法規を守り、速度をおとして自車の右折を待って進行するなど、安全な速度と方法で進行するだろうことを信頼して運転すれば足り、本件被害者のように、あえて交通法規に違反して、高速度で、センターラインの右側にはみ出してまで自車を追越そうとする車両のありうることまでも予想して、右後方に対する安全を確認し、もって事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務はないものと解するのが相当である」と判示しました。
上の判決では、行為者に規範の違反行為がある場合にもなお信頼の原則の適用を認めたものですが、このような場合にまで信頼の原則を適用するのは妥当でないとの主張もなされています。
(参照 w:信頼の原則)
事実の錯誤
編集過失においても、客観的構成要件要素についての認識・予見が必要となり、また事実の錯誤が問題となりますが、これらについてどのように考えるかは故意の場合と同様に考えられます。
そこで、判例・多数説のように故意において法定的符合説(抽象的法定符合説)の見解に立つのであれば、実際の法益主体に侵害が生じることについてまでの予見可能性は不要であって、同種の客体に侵害が生じる予見可能性があれば足りることとなる戸考えられます。一方、有力説の主張する具体的符合説(具体的法定符合説)の見解に立つと、現に侵害が生じた客体について、侵害が生じることの予見可能性が必要となると考えられます。また因果関係については、因果関係の基本的部分についての予見が必要と考えられます。
- 最決平成元年3月14日刑集43巻3号262頁
- これは、被告人が業務として普通貨物自動車を制限時速30kmの道路を時速65kmで走行中、対向車を見て狼狽し、ハンドル操作を誤って信号柱に後部荷台を激突させたところ、その衝撃によって後部荷台に乗車していた2名を死亡させたという事案です。
- 最高裁は、「被告人において、右のような無謀ともいうべき自動車運転をすれば人の死傷を伴ういかなる事故を惹起するかもしれないことは、当然認識しえたものというべきであるから、たとえ被告人が自車の後部荷台に前記両名が乗車している事実を認識していなかったとしても、右両名に関する業務上過失致死罪の成立を妨げないと解すべきであ」ると判示しました。
- 近鉄生駒トンネル火災事件(最決平成12年12月20日刑集54巻9号1095頁)
- これは、被告人らがトンネル内の電力ケーブル接続工事をする際、誤った認識の元に工事を行ったため電流が漏洩して電力ケーブルを焼燬し、有毒ガスを生じさせ、き電停止の事態を招来させたため、トンネル内で停止した電車の乗員乗客に死傷の結果を生じさせたという事案です。
- 最高裁は、「被告人が、ケーブルに特別高圧電流が流れる場合に発生する誘起電流を接地するための大小2種類の接地銅版のうちの1種類をY分岐接続器に取り付けるのを怠ったため、右誘起電流が、大地に流されずに、本来流れるべきでないY分岐接続器本体の半導電層部に流れて炭化導電路を形成し、長期間にわたり同部分に集中して流れ続けたことにより、本件火災が発生したものである。右事実関係の下においては、被告人は、右のような炭化同電路が形成されるという経過を具体的に予見することはできなかったとしても、右誘起電流が大地に流されずに本来流れるべきでない部分に長期間にわたり流れ続けることによって火災の発生に至る可能性があることを予見することはできたものというべきである。したがって、本件火災発生の予見可能性を認めた原判決は、相当である。」と判示しました。
管理・監督過失
編集管理者や監督者の過失が問題となる事例として、監督過失あるいは間接防止型と呼ばれる、結果を惹起した行為者の過失行為を防止するべき監督者の過失が問題となる場合と、管理過失あるいは直接介入型と呼ばれる、結果発生を防止するための物的・人的体制を整備するべき管理者の過失が問題となる場合とがあります。
監督過失
編集監督過失が問題となるのは、上司である工場長が現場作業員に対する適切な指揮監督を怠ったため、作業員が油断して事故を起こしたような場合であり、このような場合において監督者に過失が認められるためには、監督者において通常の過失の成立要件が充たされることが必要であり、旧過失論においても新過失論においても、少なくとも監督を怠ったことにより直接行為者が過失行為をし、結果が発生することの予見可能性が認められることが必要となります。
管理過失
編集管理過失は、結果回避のための措置を十分にとらなかったことから結果を惹起したことの過失責任が問われるものであり、被監督者等の行為を介さず直接結果発生についての責任を問われるものです。典型的には、防災体制が不十分であるなどといった、安全体制確立義務違反となる不作為が問題となります。
- ホテルニュージャパン事件(最決平成5年11月25日刑集47巻9号242頁)
- 本件の被告人は、地上10階建ての鉄骨鉄筋コンクリート作りのホテルの建物を所有し、かつこれを経営する会社の代表取締役社長であって、消防法上本件建物の管理権限者の地位にあったが、このホテルの防火設備やスプリンクラー設備は不十分なものであり、消防訓練もほとんど行われておらず、消防法に違反した状態であった。このような中で深夜宿泊客のタバコの不始末から火災が発生し、火災拡大防止や被災者救出のための効果的行動をとることができずに、32名の宿泊客が死亡し24名が傷害を負ったという事案です。
- 最高裁は、被告人が代表取締役としてホテルの経営、管理事務を統括する地位にあって火災の発生を防止し、その被害を軽減するための注意義務を負っていたことは明らかであり、本件ホテルの設備が不十分であり、また消防訓練その他の防火防災対策も不備であることを認識していたのであるから、一旦火災が起これば宿泊客らに死傷の危険が及ぶおそれがあることを容易に予見できたことが明らかであると認定した上で、被告人には消防法令上の基準に従いスプリンクラー設備などを設置し、防火管理者を指揮監督して消防計画を作成させ、消防訓練等を行わせるなどして、「あらかじめ防火管理体制を確立しておくべき義務を負っていたといううべきである。そして、被告人がこれらの措置を採ることを困難にさせる事情はなかったもであるから、被告人において右義務を怠らなければ、これらの措置があいまって、本件火災による宿泊客らの死傷の結果を回避することができたということができる。以上によれば、右義務を怠りこれらの措置を講じなかった被告人に、本件火災による宿泊客らの死傷の結果について過失があることは明らかであり、被告人に対し業務用過失致死傷罪の成立を認めた原判断は、正当である。」と判示しました。
業務上の過失
編集業務上の過失とは、業務者が業務上必要な注意を怠ることによって結果を生じさせるという過失をいいます。そして業務とは一般的に、各人が社会生活上の地位に基づき継続して行う事務と解されています。もっとも、社会生活上の地位といってもこれは職務上のものに限られたものではなく、たとえば日常的な自動車の運転行為も業務に該当すると考えられています。また、ここには反復・継続して行う意思をもって行う行為も含まれ、現に長期間継続されている必要はないと考えられています。もっとも、業務の内容については犯罪の性質により相違があって以上と異なるものと定義されることもあり、個々の犯罪類型ごとの検討が必要です。
業務上の過失について重い法定刑が規定されているのは、業務者には通常人よりも特に重い注意義務が課されており、これに違反するためより重い責任が問われるためであると解されています。
(参照 w:過失犯)