ここでは、不作為犯について扱います。

この講座は、刑法 (総論)の学科に属しています。前回の講座は構成要件、次回の講座は因果関係です。

作為と不作為 編集

犯罪には、条文上不作為によって構成要件が定められているものがあり、それを真正不作為犯と呼びます。これに対して、作為によって構成要件が定められているもの(ほとんどがそうであり、例えば殺人罪は「人を殺した」という作為です)について、不作為でこの構成要件の実行行為に該当することが認められるのかが問題となります。これについては、作為の類型によって定められている以上不作為によっては該当することはないということも考えられますが、現在では、一般に不作為でも作為と同様の構成要件該当性があると認められる場合があり、不作為による犯罪の成立を認めることも、罪刑法定主義に反するものではないと考えられています。そして作為類型として構成要件が定められているものを不作為によってなす場合を、不真正不作為犯といいます。

不真正不作為犯について、どのような場合に不作為が構成要件に該当する実行行為として認められるかということが、不作為犯の大きな問題となります。

作為義務 編集

不作為犯と作為義務 編集

作為による行為に刑罰を科すということは、その行為を禁止することですが、不作為に刑罰を科す場合には、人に何らかの作為を刑罰をもって強制するということとなります。そして、現在では個人には行動の自由が認められるというのが大きな前提となっており、たとえそれが人助けの類であって倫理・道徳上すべき行為であるとしても、直ちに刑罰をもって行為を行うことを強制することは認められるものではなく、また、不作為犯を広範に認めたのでは何もしなくとも実行行為に該当する以上、際限なく構成要件に該当する者が拡大することともなり妥当でないと考えられるため、どのような場合に不作為犯が成立するかについて考える必要があります。

そして、不真正不作為犯が認められるためには、その構成要件が予定している作為による法益侵害の危険性と同程度の危険が、不作為によりもたらされる必要があり、作為犯の実行行為と同視できる程度の不作為に限り、その不作為が構成要件に該当する実行行為であると評価されることとなります。

そこでまず、犯罪の実行行為として認められるためには、不作為によって結果が発生するという現実的危険が作為による場合と(少なくとも)同様に認められるものであることが必要です。少なくともというのは、不作為の場合は、不作為であるがゆえに作為よりも高い可能性が必要でないかとも考えられるためです。例えば殺すつもりで人を殴り、結果として相手が死んだ場合、たとえ行為前の段階ではその殴る行為によって死ぬ可能性は1パーセントであったとしても、やはり殺人罪が認められると考えられます。しかし、例えば病気の者を殺すつもりで病院に連れて行かず、結果として相手が死んだ場合においては、病院に連れて行かないことにより死ぬ可能性が1パーセントしかなかったのであれば、結果発生の現実的危険はまだ生じていなかったとも考えられ得るのです。

次に、一般に不作為が作為と同様の実行行為として認められ不作為犯が成立するためには、不作為を行った者に法的な作為義務が認められることが必要であると考えられています。何らかの作為を行うべき法律上の義務が認められるにもかかわらず、それをしない場合には、そのような不作為は、作為の場合と同様の類型的危険があるものと認められ、その不作為が作為による場合と同様実行行為に該当する行為であると評価されます。また、このような作為義務が認められる地位のことを保障人的地位ということがあり、保障人的地位に基づく作為義務が必要であってどのような場合に保障人的地位が認められるかが問題とされることがあります。

もっとも、どのような場合に作為義務(保障人的地位)が認められるかは見解が分かれています。不作為犯を認めることは作為を命ずることとなるためその基準は明確であることが望ましいと考えられますが、作為義務について妥当な一つの基準を立てることは困難であり、学説上定説となっているものはなく、また判例も法令や契約、先行行為や不作為の際の状況などを総合的に考慮して作為義務の有無を判断しているものと考えられます。

三分説・多元説 編集

三分説とは、法令、契約や事務管理、慣習や条理、によって作為をすべき法的義務が認められる場合に、作為義務を認めるという見解であり、伝統的見解です。

この見解は、条理の内容として後記の先行行為などの内容も取り込まれることとなりますが、それだけその内容は不明瞭であり、条理というのでは何も言っていないに等しいものであるとの批判もなされています。また、法令に反した場合、それが当該法令違反として処罰を受けるのはともかく、なぜそのような場合に刑法上の処罰も基礎付けられるのかという点について説明されていないとも批判されます。

また多元説は、作為義務の発生根拠を多元的に理解し、以上の法令や契約、条理などのほか後記の排他的支配なども含め、総合的な考慮によって作為義務の有無を判断するという見解であり、この見解に対しても、やはり基準として不明確であるとの批判がなされます。もっとも、この見解を支持する立場からは、どの説によっても、現状では妥当な一つの基準を立てることに成功しているとは言えず、このような多元的な判断をするしかないとも主張されています。

裁判例においては、排他的支配や先行行為などが考慮されており、多元説的な立場に立つものと考えられます。最高裁の判例では以下のものがあります。

シャクティ事件(最判平成17年7月4日刑集59巻6号403頁)
本件は、被告人は、手の平で患者の患部をたたくことでエネルギーを患者に通し、治癒力を高めるというシャクティパットと称する治療を行う特別な能力を持つとして信奉者を集めていたところ、その信奉者の一人であるAが、生命に危険はないものの脳内出血で倒れて入院中で意識障害のため治療が必要である、同じく信奉者であるAの親Bの治療を被告人に依頼し、被告人は滞在中のホテルでBの治療を行うとして、退院させることはしばらく無理であるとのBの主治医の警告等を知りながら、入院中のBをホテルに運び出させ、Bにシャクティ治療を行っただけで必要な医療措置を受けさせないままBを約1日の間放置し、痰による気道閉塞に基づく窒息によりBを死亡させたため、殺人罪に問われたという事件です。
これにつき最高裁は、「以上の事実関係によれば、被告人は、自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的危険を生じさせた上、患者が運び込まれたホテルにおいて、被告人を信奉する患者の親族から、重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあったものと認められる。その際、被告人は、患者の重篤な状態を認識し、これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから、直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものというべきである。それにもかかわらず、未必的な殺意をもって、上記医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させた被告人には、不作為による殺人罪が成立し、殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると解するのが相当である。」と判示しました。

排他的支配説 編集

排他的支配説(支配領域性説)は、不作為が作為との同価値性を有するといえるためには、結果へと向かう因果の流れを排他的に支配していたことが必要であり、自らの意思により事実上の排他的支配を設定した場合や、意思によらずとも排他的支配がありかつ社会生活上継続的な保護管理義務を負う場合には、作為義務が認められるという見解です。

例えば自動車事故であれば、単に過失によって事故を起こし、人を轢いただけではその者に対する殺人罪の不作為犯としての救助義務は認められませんが、一旦自己の車内に引き入れた場合には、他の救助が期待できなくなるため、自ら排他的支配を設定したものとして被害者を救助する作為義務を負い、人気のない山中に置き去りにしたような場合などには不作為による殺人の実行行為があったと考えられます。

この見解に対しては、排他的支配まで求めるのは過多の要求であるとの批判がなされています。

先行行為説 編集

先行行為説とは、不作為以前の自らの先行行為によって法益侵害に向かう因果の流れを設定した場合には、作為義務を認めるものです。例えば自動車事故であれば、事故を起こし人を轢いたという先行行為によって、その者を救助するべきという作為義務を認め事となると考えられます。

しかし、先行行為自体についての罪責があるからといって直ちに後の不作為について作為と同視しうるものであるとはいえず、この点では作為義務が広範に認められすぎ、また先行行為がない限り作為義務がないという点では作為義務の成立範囲が狭すぎるとして批判されます。

判例では自動車事故について、人を轢いたというだけで救助しなかったことによる殺人の不作為犯を認めたものはなく、先行行為のみによって作為義務が認定されたことはありません。

作為可能性 編集

作為可能性を作為義務の発生要件として位置づけるか、あるいは作為義務とは別の構成要件要素や、責任の問題として位置づけるかは見解によりますが、作為を強制することとなる以上、その作為は可能なものでなければならないと考えられています。そこで、例えば溺れている者がいるものの川の流れが早く助けに行くことができない場合、助けに行かなかったという不作為によって殺人罪などの罪を問うことはできないこととなります。

因果関係 編集

作為犯の因果関係については詳しくは次回の講座で扱いますが、基本的に、因果関係が認められるためには、「あれなければこれなし」という条件関係が認められることがまず必要であり、実際に起こらなかった事実を付け加えてはならないものと考えられます。しかし、不作為犯の因果関係の判断では、何も付け加えないで判断することはできないのであって、行われるべきであった作為を付け加えて、作為をしていたならば結果が発生しなかったかどうかにより事実的因果関係が判断されます。また、このように因果関係が認められるためには、合理的な疑いを入れない程度の、ほとんど確実といえる程度の結果回避可能性が必要と考えられています。

例えば、交通事故によって人に重傷を負わせたにもかかわらずこれを放置し、相手が死亡したとしても、直ちに救助して病院に連れて行ったとしても助けられたかどうかわからないという場合には、不作為がなかったならば結果が発生しなかったとは言えません。そこで、不作為がなく、作為義務が果たされたならばほとんど確実に結果が回避できたといえることが必要となるのです。

また結果回避可能性についても作為義務の問題とし、結果回避可能性が認められない場合には、そもそも不作為犯の作為義務が認められないとの見解も主張されています。このように考えると、結果回避可能性が認められない場合には作為義務がないため実行行為がなく、未遂の成立も否定されることとなります。

最決平成元年12月15日刑集43巻13号879頁
本件は、暴力団構成員である被告人が、少女Aとホテルに赴き、Aに覚せい剤を注射したところ、Aは頭痛や吐き気などの症状を訴えはじめ、その後覚せい剤による錯乱状態となり、さらにその後自ら正常な起居動作をなしえないような重篤な状態に陥ったが、被告人は覚せい剤使用の発覚をおそれてAを漫然放置して、迎えに来た子分とともにホテルを立ち去ったところ、Aはその時点では生存していたが、その後急性心不全のため死亡したという事件です。被告人は保護責任者遺棄致死罪等の罪で起訴されました。
これについて最高裁は、「被害者の女性(A)が覚せい剤により錯乱状態に陥った午前零時半ころの時点において、直ちに被告人が救急医療を要請していれば、同女が年若く(当時13年)、生命力が旺盛で、特段の疾病がなかったことなどから、十中八九同女の救命が可能であったというのである。そうすると、同女の救命は合理的な疑いを超える程度に確実であったと認められるから、被告人がこのような措置を取ることなく漫然同女をホテル客室に放置した行為と午前2時15分ころから午前4時ころまでの間に同女が同室で覚せい剤による急性心不全のため死亡した結果との間には、刑法上の因果関係があると認めるのが相当である。」と判示しました。

主観的要素 編集

不作為犯において求められる主観的要素としては、作為犯の場合と同様、故意(未必の故意を含む)があれば足りると考えられています。

最判昭和33年9月9日刑集12巻13号2882頁
本件は、残業中の被告人が、炭火を弱めるなどの処置をとらずに火鉢を放置して仮眠を取ったところ、炭火の過熱からボール箱入原符等に引火し、被告人はこれを発見したが、驚きと自己の失策が発覚することへのおそれなどのため、消火せずに逃げ去ったという事件です。
これについて最高裁は、「被告人の重大な過失によって右原符と木机との延焼という結果が発生したものというべきである。この場合、被告人は自己の過失行為により右物件を燃焼させた者(また、残業職員)として、これを消火するのはもちろん、右物件の燃焼をそのまま放置すればその火勢が右物件の存する右建物にも燃え移りこれを焼燬するに至るべきことを認めた場合には建物に燃え移らないようこれを消化すべき義務あるものといわなければならない……略……被告人は自己の過失により右原符、木机等の物件が焼燬されつつあるのを現場において目撃しながら、その既発の火力により右建物が焼燬せらるべきことを認容する意思をもってあえて被告人の義務である必要かつ容易な消化措置をとらない不作為により建物についての放火行為をなし、よってこれを焼燬したものであるということができる。」と判示しました。

大審院の放火の判例(大判大正7年12月18日刑録24輯1558頁)では、単なる認容ではなく、既発の火力を利用する意思が成立要件とされていましたが、上の判例ではそのような利用意思は要件とされませんでした。

(参照 w:不作為犯